昭和51年07月08日 朝の御理解



 御理解 第81節
 「氏子、十里の坂を九里半登っても、安心してはならぬぞ。十里を登り切って向こうへおりたら、それで安心じゃ。気を緩めると、すぐに後へもどるぞ。」

 本気で登ろうという気にならなければ、随分高い山だなぁと、まぁならちっとばっかり登ってみようかと言う位な事では途中でへこたれます。まぁとにかく一心発起しなければ。本当にそこに一心を立てるという事は素晴らしい事です。その一心に神様がお働きをして下さるですから、もうあとは有り難うして有り難うして登れると言うです。今一時の夏期信行になら沢山お参って参ります。皆さんが本気でこの一月だけはと思うておられるからお参りが出来るでしょうが。
 そして万事にお繰り合わせを頂くでしょうが。それは一心を立てるからです。もうそう心に決めてしまうからです。ここの山辺から田代かずえさんというのが毎日今参ってきます。むつやの娘です。この山辺には行っとるところには信心がありませんから、もういっつも先生のこの上ですから、下を見ればあそこが合楽と思うてから、いつも拝みおりますというて言うんですけれども、なかなか忙しくてお参りが出来ない。
 ところが今度はどうしても一つ、夏期信行におかげを頂きたいもんだと、主人にいうてもお家の方に言うても分かりませんから、どうぞお繰り合わせ頂きたいと思うてお願いさせて頂いとりましたら、おかげで今日お参りが出来ました。おかげで今日お参りが出来ましたと、それがもう感動一杯なんです。それが本当に今日お参りが出来たという、その実感があるからです。もう不思議に私がちょうどその時間にでらなきゃならない用件が、一週間続いておりますと昨日お届けしております。
 ですからもうただまいっもう本当に許されて参っておるという実感がね、もうそれこそ御体中でお礼を言うとる感じがするです。毎日ここに来て。神様もお喜びござろうか、お母さんも喜びござろうと言う事です。それは参りたいとは思ようる、それはもう本当1人ぐらいじゃからどうにでもなるたいと思よるばってん、一心発起しないから参られんのです。参らにゃならんと思いおるならばってん、そしてもうただ思うとりますだけの人は、もう言い訳の多い事、言い訳の多い事はばさらかですね。
 夕べも総代会でしたが、久し振りで中村さんが参ってきておりましたが、その毎日参られんと言うその言う訳です。初美もお参りが出来ん清もお参りが出来ん。誰ぁれもお参りできん、そばってんもうどうでもちゅうちからみゃおりますとか、言いますけれどもです。もう一心発起したら参れん事は絶対ないです。もうお繰り合わせ下さるです神様は。だからそのおかげが有り難うして堪えん訳です。
 私は本当にあのお引き寄せを頂きましたとか、お参りをさせて頂きましたとか言うけれども、本当に一心発起してそこに一心を立てると神様の働きが始まる。その働きを受けながらのお参りであって初めてお参りさせて頂いた、またお引き寄せを頂いたという実感が誰よりも強いのです。私は今朝から部屋を出て来る時にちょっと振り返りさせて頂いて、何か知らんけど、どっかよその家に泊めて頂いた感じがしたんです。
 それからまた後ろを向いてから、本当に結構なお部屋に住ませて頂いて有り難うございましたと言うて、その御礼を申させて頂きおったら、あのうそれが本当な事だという意味の事を頂きました。あぁ布団にもお礼は言いおります枕にも御礼は言いおります。ご飯食べる時も頂きますは言いおりますけれども、それこそ赤の言うならば赤の他人の家で一宿一飯とでも申しますかね。その一宿一飯の事に対してもうそれこそ、まぁこりゃ昔の侠客の人達の義理人情の世界ですけれども。
 生命でも投げ出さんならんというのですか、そりゃ義理で投げ出さなのじゃなくてです。赤の他人の人から一食のおかげを頂いた、泊めて頂いた赤の他人の人からこの一宿を頂いたということがです。もう大事でございました本当にお世話になりました。もう芯から言わにゃおられないです。宿を借りて一部屋一晩泊めてもろうたというたら、本当に雨露しのがせて頂いて、本当に有り難うございましたと御礼言わにゃいかんでしょ。日頃どんなに私のものは何ぁんにも無い。
 家もただ一切が神様の御物と言っとるじゃないですか。言っとるけれども自分のものと思うとるから、頂きますとは言いおるけれども、こりゃもう枕も拝み寄るお布団も拝みおるけれどもですね、今日私が振り返って、部屋で実感してお礼を言うたのとは、もう大変だだ目が違う事を改めて気付かせて頂いた。
 皆さんあの神様のお家に住まわせて頂いておる、神様の食べ物をこうして頂いておる、神様の着物を着させて頂いておる。私はこの実感がなからなければ本当のお礼にはならんと思うですね。私が買うてきてから私が着てから、私が食べて私が建てた家だからと言う様な事で、ただ拝みおるというだけでは、実感が私は今日改めてそれを思いましたです。だからせめて神様とは言わんでも他人から食べさせてもろうた、他人の部屋に休ませてもろうたと言う位な気持ちになると、そこの実感が出て来る様に思うですね。
 もう信心ちゃあ限りなく有り難うならせて頂く稽古ですから。例えばならお参りをさせて頂いて、もう自分の自動車で自分がこの足で歩いても、そして口だけではお参りをさせて頂きました、もうお引き寄せを頂きましたのと言いおるけれどもね、それこそ神様が毎日ここでお礼をいうとるようにです。どうかして参りたいという一心を抱いたら、神様が間違いなしに時間も違わず、その時間に1時の御祈念に間に合うようにお参りが出来る、外に用件ができて。
 本当神様の働きちゃあもう本当常智に及ばんと思うてから、有り難いと思うて参ってきおるけん、本当にお参りさせて頂いたという、いうたらもう何での方が先に出るごたる、有り難うございますと言いよるです毎日。参ったら参らせてお引き寄せ頂いたと言いよるけれども、やはり参ったのであり、お礼は言いおるけれども自分のまま食べおるのとこう、自分の家に住んどるとというものがあって、御礼を言うたんでは、神様に本当に通うようなものが生まれてこないと思うです。
 いわゆる神様の家の神様のおかげの神様の財産の、もう一切が神様のものだともう本当にね、この辺のところの体得だけでから有り難さが倍加しますよ。福岡の箱崎教会の先生がちょうど一週間ここに修行に来ております。今度はもう前も何回も来ましたけれども、来ちゃ帰り来ちゃ帰りと言った様な修行でしたけれども、あと一週間今度はもう一修行頂いて修行させて頂きたい。
 そしてお許しを頂きたい事は、親先生がここで御結界奉仕になるならば、もう出来るだけ近い所で神習させて頂きたいから、お許しを頂きたいと言うてお願いする。それこそ構いはしませんよと、私がどうかいてやらにゃんわけじゃない、あそこに座っとるだけじゃからいいですよと。ちょうど3,4日ぐらいですもう有り難うして有り難うして、研修の時に発表出来んぐらいに感動するです。
 昨日もね信心させて頂きおるとこういう有り難さを感じた事がなかったかって、それも、そげなん風に言葉になって出らなかったです。帰るときにご挨拶して帰りましたけれども。本当にねやはりもうその気で修行に来るなら修行に来るにゃけん、いやその気にならなければ、神様もやっぱその気になって下さらんという事が分かりますよ。どこを頂いたか有り難かというものじゃないですもん。ただ有り難うして有り難うして。だからねこりゃどうでん一つ、あのその気になる事だというのです本気で。
 山もはぁこげん山登り切る事登り切るじゃろうかと、言いながら登りょったんじゃ、もう本当にきつかばっかりです。十里の坂を、ほう今から十里の坂を登らにゃんちゃちょいと、もう途中で引き返すかんわからんちゅうごたる気持ちでですね、登りおったんでは何時まで経ってもそれこそ本当の、いわば向こうへ下りると言った様な極める事は出来ません。だからせっかく私はおかげを信心をさせて頂くならばです、先ずなら今の佐田先生じゃないですけれども。
 一週間はみっちりもうここからは、座って動かんという腹に来た訳です。だから初めの2、3日はやはりやっぱり、座っとるのがきついなぁとこう思うたでしょうけれども、まぁここ4日後ぐらいですかねえ、もうとにかくあの研修の時の発表が言葉の出らんくらいに感動しとった。だからそのあいらその有り難いという心でです、山を登る坂を登るというのですから、もう楽しゅうして有り難うして、として十里の坂が登りきられるということにならんのです。
 せっかくの朝参りならばですもう、もうこう決め込んどきますとですね、皆さんの場合なんかはそれを決め込んでおられるから、有り難う楽しゅう出来るでしょうが。もう本当に一心発起をする事です。そこにはちゃんと、朝神様がきちっと目覚ましのおかげを下さるし、万事お参りが出来る様にお繰り合わせを下さるし、だから有り難い。有り難いからお参りが、いわゆるお参りさせて頂いたということの実感が頂けるんです。
 「向こうへ下りたら安心じゃ」こうあのう2,3日前の清濁相呑むと一般では言うが、お道の信心には、清もなければ濁もないという、あのまぁ本当に金光教の信心偉大さというか深さというか広さというものを、感じさせずにはおかんと言う様な御理解でしたよね。だから私昨日その方が、ある方がそのうまいろいろね、あれには大変なやっぱ問題が、まだ分からない所が沢山ある訳です。本気で取り組んだ事は取り組んだ訳です。大体そのう清濁相呑む、本当にどう言う様な事だろうか分からん。
 けれど実際取り組んでみるとやっぱり難しい。話を聞いてみるともう理不尽なというか、まぁ私だからそのように申しましたが、ならあのう清濁相呑むという、何もかにも最近は泉尾の三宅先生の、何でもの願いという事がちょいちょい出てくる。何でもの願いという事は、何でも本気で願わねばならん願わなければ出来ん。昨日の御理解がそうでしたよね。願っておかげを頂かなければ私は泥棒になる、そういう御理解でしたよね。願って皆さんがおかげ頂ききらんで信心どんやめるとです。
 私はいうならばお金を皆さんが払うて、私が皆さんに商品を渡さないような事になるから、私がいうならばペテン師になったり、泥棒大泥棒になったりしなきゃならん。だから私としてはどうでもこうでもおかげ頂かせずにはおかんという、その願いに一つのね、弾みを持たなきゃいけないと同時に、皆さんに今私が申しましたように、どうぞ私を泥棒にしないで下さい、おかげは絶対のものだから、頂き抜くというという気になって下さいという御理解でしたよね。
 おかげはもう絶対のものだから、頂き抜いてこちらも一生懸命、その願うからにゃ願う側も御取次を願う側もです、しっかり願っておかげを頂いて下さらにゃならん。また何でもの願いという事は、もう何でもかんでも起きてくる一切のいうならば、昨日の御理解の自然の対決に於いてです、それに打ち勝っていく時に初めて力が出来ていくんだと。いろんな事が起きてくる、だからまぁそれがそのまぁ難しいという事であります。だからそこんところがね、何でもかんでもという事は。
 例えば私がいつも申します、四年半いよいよ一切の全ての事を頂きますと言うて神様にお約束して、頂いたその四年半というものは、確かに何でもかんでも頂いた。四年半目に神様がお前は頂けというたら本当に何でんかんでん頂くけども、滋養にならないようなものは頂くなと、例えばほうれん草に例えるならばです、畑から引っこ抜いてきて、まだ赤い葉も枯葉もついとりゃ、ヒゲもついとる。泥もついとる。そのままジャキジャキさせながら頂くそれはあまりもの事じゃ。
 これからはヒゲもむしって赤い葉もむしって、泥どんがついとりゃ奇麗に洗うて、滋養になるところだけを頂くのが、何でもということだということです。それをま誤解した人はです赤い葉も頂かんならん、ヒゲも頂かんならんと言う様な所が難しかったと。けれども頂くという気になりゃ、私は四年半頂いてきたですからね。それこそ滋養にならんところでも頂いてきた、いや滋養になるどころかむしろ害になったところまで頂いてきた。一心を立てれば出来るです。
 だから後は楽なこつ楽なこつばさらか。美味しかばぁっかり、今日は皆さんに言っているのは、その美味しかばぁっかり、有り難いばぁっかりでいかなければ、いわばこの坂が本当に登られんという事を、今日は聞いて頂いた。食べられん所まで食べんならんという生き方では出来るこっちゃない。所が又その辺が難しい。私はその例えば御取次をさせて頂きょったらですね、あの傘が雨の降るに傘が風が吹きおるごたる風でそのう、こんな風にしてすぼめていきょんなさるところを、そして黒頭巾ば被っちゃるです。
 その上傘ばこうやってしちゃる。してそん傘のとっぺんが、あのちっとばっかりこう破れとる。でこうやっていきょんなさるしたら向こうから自動車が来よる。あらあぁ衝突するがっち私が思わず声を出さんならんごたる御心眼です。今日の私はここんところを最後にね、向こうへ下りたら安心じゃというこの安心ということもです、本当の安心ではない安心で安心しとるごたる。傘は破れとるそしてなら清濁相飲む、例えばんなら悪い事をしおっても、はぁこれがありのままの姿だこれを頂くのだ。
 悪か事も良か事もばさらか頂ききらんな、その自分でも悪か事しよる、それも有り難く頂きゃ良か御の字つけさえすりゃ良かと、御の字を形で付けただけじゃいかん、心から付けられなければ。だから少しはまだ心に引っ掛かってる訳です。だから安心のごたるばってん破れとる。そして人に見られんごと顔に頭巾ば被っとる。それで傘はこう差しとります安心もう自分がある意味でのおかげを頂いとるけん、安心と言った様な安心はです、言うならばこれは本当の安心じゃなくてドライな安心です。割り切ってる訳です。
 だからそげなん安心では、向こうから自動車が来おったら衝突する。見つからん。私がその御心眼頂いてから、あぁあぁ衝突するがっち言うごたる、その進め方をしとる訳です。そしてなら先月頂いたお道の信心には、清も無からなきゃ濁も無いと言う様な、まぁいうならば大変素晴らしい幅広い御理解でしたけれども、それを自分の上にじかに頂くということは、実をいうたら危険だと言う事ですねやっぱり。本当の意味で清濁共に御の字がつけられるようになる稽古を。
 先ず本気でしなきゃならないと言う事です。でないとその自動車と衝突せんならん。と言った様な事でございましたがね。私共が向こうへ下りて安心じゃというとる安心も、ある意味で検討しなければならない。同時に十里の坂を登るという時にです、さぁ登りきるじゃろうか、あぁまぁ登りきるまでいこうと言った様な事ではおかげにならんです。どんな事があっても登るという一心発起をすると、神様がそこにちゃんとおかげを下さるというのです。
 本気でんなら朝参りをさして頂こうという本気になったら、もうそれこそ疲れて、もう起きられないような時でも、神様が目覚ましのおかげを下さるし、それこそいろんなあの手この手でお参りさせて下さるです。田代かずえさんがお参りが出来ない、今まではお参りしたいばってんお参り、信心は子供の時からあるのですから、有り難い事も分かってるのですから、お参りしたいばってん周囲がこうじゃから参られんとこう、もいわば参りたいけど参られんと決めとる。
 けれども今度の夏期信行だけはと、こうまぁ一生懸命に思うた。思うたら前ん時も変らず、1時の御祈念にお参りせなならん時期には、何か外に出らにゃきゃならん用事が出来て、おかげでお参りが出来るというんです。そういう働きが生まれて来るのです。十里の坂でもそうです。初めから登りきるじゃろうか、まぁ登りきる所まで登ってみようと言う様な事ではきつかばぁっかりです。坂じゃから。けども本気でその気になったらです、もう有り難うして有り難うして、登れるということであります。
 それには今私共が頂いておる有り難いという物を、ま一丁検討して私共があんたどんが安心しとるその安心をもう一つ検討して、破れ傘的な安心ではなかろうか、ただ自分のもの自分の家、自分が働きだして作った食べ物だと言う様な観念があって、あぁ頂きましたの有り難うございますと言うただけじゃ、芯からのものは生まれてこん。だからせめてです私が今日皆さんに言うようにね、他人さんから一椀のご飯を頂いたと思いなさい。はぁ今日は宿がないと思いおったらん、親切な方から一部屋宿を貸して頂いた。
 一晩ここに泊めて頂いたという気になったら、本当におかげで雨露しのがんでようございました、おかげでひもじい思いもせんで済みました、本当に有り難うございました。もう辛いも言わない私は、もう今日を境にそげん思いおるです。私は非常に食べ物に口上が多い訳です。けれども口上というのはでもこの人に教えたいと思うから、辛かの甘いのと不平不足じゃないと自分で思うとった。今日からはです他人からそうして一椀の食事を呼ばれたと思うたら、こりゃ辛かばのちゃとても言われはせんじゃろうと思うです。
 もう今日からは言うまいと私は今日は思うた。今までの有り難さとは違った、倍化した有り難さが今朝から私の心の中に感じられるんです。それこそ部屋を出てからまた振り返ってもう一辺拝まにゃおられんとおかげを頂いて、これが私本当の意味で神様の家に住まわせて頂いておる、神様からのお下がりの食べ物を頂いておるということに、なるのじゃないだろうかという風に思うです。そういう有り難いを持ってです、なら十里の坂を見た時にです、もう腹が決っての事ですから楽しゅう。
 はぁ本当きつかきつかち思うならばです。まだその一心発起が出来とらんのです。一心発起が出来りゃどういうきつい時でも、神様が撫でさすなさるようにして、おかげを下さるもんです。そういう働きが必ず起こるです。だからそういう働きを受けながらの十里の坂ですから、向こうへ降りる事もまた有り難い安心。そこに頂けた安心、その稽古をしとるうちに本当の意味においての、金光教の信心には、清もなからなければ濁もないなと言う様な事が、本当に分かって来るだろう。
 御理解を頂いたからすぐ、はぁ今まで自分は悪かごとしおると思ったら、こりゃ悪かごとじゃなかったばいのと、これもやっぱ御の字付けさえすれば良かばいのと、いう頂き方はちょうど破れ傘を差して頭巾をかぶって覆面しとる。人に見られちゃいかん聞かれちゃいかんこつです。そしてこうやって行かんとし自分の安心、これで安心と思うたっちゃ向こうから自動車が来おるとがわからん。ほう危なかがっち言おうごたる事になって来るです。だからいうならば私共が有り難いと言うておる事の検討。
 私共が安心しておるというその安心をですね、もう一辺改めてみて、そして私一心発起しなければです、今日は十里の坂をというこの御理解をね登れるとこまで登ると、なんたんと言った様なへこたれぶりでは、そりゃきつかばぁっかり。朝参りがきつかばぁっかり。修行がきついばぁっかり。佐田先生がそりゃ2,3日はきつかった。ところがもう次には神様がお引き立てて下さりょる。おかげ下さりょる。もうどうにもこうにもでけん有り難うして有り難うして涙して。
 まだ24歳の青年がね本当に有り難うして有り難うしてと言う様な気持ちが、どっから頂けるか。今までかつて長い信心をして来たけれども、こういう有り難いに浸った事もわか頂いた事もなかった。それで合楽に来てからあれを頂いたから有り難くなったのじゃない。自分が一心発起今度の一週間だけは、もう絶対親先生のそばから離れんぞと言う様な意気込みでやってきて、おかげを頂いたからそういう有り難いものを神様が与えて下さるんだと、私は思います。その有り難いで登らせて頂こうという御理解でしたね。
   どうぞ。